毎日勉強とか仕事とか、人間は前に進まないと基本的には気が済まない生物で、それは人間に限らずほとんどの生物はそういう風にできているわけですが、人間の場合には自給自足ではないので仕事を分担して各々が専門職として機能してるのがいわゆる仕事というやつですね。
ときとしてルーティンワークや新しいプロジェクトなどが嫌になってしまうこともあるでしょう。成果がすぐになどとてもじゃないが出ない場合もあるし、企業体が大きい場合には、自分の就職人生を30年だか40年だか費やしても完結せずに終わるなんてことも事業によってはあるだろうと思います。
そういう、まあ、嫌になってしまう、という状況は人生では本当に多いものですが、そういうことが実は使命だったりする、という話です。
こんなことは、調子がいいときにしか思えないことであって、実際そういうどん底状態にあっては、とてもそんな風には思えないことだろうと思います。
ただ、最近読んだ本で、田坂広志さんという人の本があるのですが、そこに書かれていたこととして、自分が成長したなあと振り返ったとき、その理由というのは苦労や困難の日々を経験し克服し乗り越えたことではなかったか?ということなんですね。そうだ、そういえばそうだわと思いました。
とはいえ成果も成功もないままに終わってしまって、ということもあるでしょうが、そういう苦労経験は、あとになって、別の形や舞台で生きてくるというのは真実なんだろうと思います。
田坂さんの本に書かれていたことで、大変興味深かった箇所がありまして、それは、無意識のネガティブな想念を浄化する技法、というもので、そこには大きく3つの技法が記されていたのですが、その第一に記載されていたことが、「自然の偉大な浄化力にゆだねる」というものです。
いわく、自然には、無意識の世界を浄化する偉大な力がある、と。単に、自然の中に身を浸すだけ、という簡単な話なんですけれどもね。
精神科の医学論文では、週に5時間以上、自然の中で過ごすことが精神安定のためには有意に有効であった、というものがあるそうですが、私の場合には、その度合いが5時間程度ではすまないようなほどではないかと思いますし、実際には愛知池もそうですし、毎月のように行く猿投山だったり、キャンプだったり森林の神社仏閣だったり、そういうところの自然に身を置くことがかなり重要なスタンスだと感じています。
いまさらながらですが、医者の仕事は、病人の心身のネガティブなことを受け止めて浄化する面が多々あります。相撲の稽古に例えると、一旦相手の体当たりを受け止めて、そこから流す、というイメージです。ですので、受け止め側にも相当の力がないと受けきれません。
それゆえにかもしれません、若いころにはあまりなんとも思わなかったことが、年齢とともに、何かしらの力を借りないと難しくなってきたと思いますし、実際には昔よりもいろいろと業務が増えているのは否めませんので仕事量も増えているのは間違いありませんので尚更です。
まあ、それで、ということもあって、本当ならば5月にも定例猿投登山に行きたかったのですが、何とギリギリ行けずに終わってしまったのです。別に義務にしているわけではないんですが、6月に入ってしまったことが、何とも自分なりに残念で、結局6月1日になってしまいましたが、夕方近くからなんとか登山してきました。この時期は日が長いので下山時にも全然暗くなかったので良かったです。
平日の夕方ごろだとさすがに土日の混雑のようなことはなく、ご覧のとおり、山頂には誰もいませんでした。一人だけランニングであっけなく上り下りした青年が一瞬通り過ぎました。他は途中すれ違ったのは数組だけでしたね、、。
