今年はあまり山登りができてなくて、
連休にひさしぶりに猿投山の登頂できました。
登頂は実に正月明けにした以来で、それからこれまでは途中で引き返すパターンだったので、今回はもう、すごくゆっくりで良いから、とにかくみんなに抜かされながらでも最後まで行こうと決めての山登り。でも結果的にタイムはさほど悪くなく、普通でした。
台風一過の晴天で、猿投は神社でもお祭り行事、そして登山する人もたくさん。この翌日が1日ずっと雨だったので、結果的に貴重な日だったというわけです。
登りながらしみじみと考えたことは、このお山には本当に目に見えない癒しを実はたくさんいただいたという過去の日々のことです。猿投山に登るようになったのは開業した年つまり10年前からで、それ以前は登った記憶がないので、なんだかんだいって自分にとっては特別な存在なんですね、。
おそらく同じように思う人たちはたくさんいて、そういう人たちが猿投山のファンなのだと思いますが、本当にたくさんのハイカーに愛されてる山です。
いま登山ブームで、ハイレベルの登山から、猿投のようなハイキング的な登山まで、本当にいろいろなタイプの人たちが山登りをするようになっているのが良く分かります。ここにも多様性をみるわけです。みなそれぞれが登山でなにかしらのカタルシスやストレス発散などの癒しをいただいているのは間違いないでしょう。
山登りはどうして癒し力があるのか、またそれがモノスゴイ癒しというほどでもないということも含めて、不思議なものだと常々思います。ちょっと神社や寺のような作用もあるようにも思います。それほどに、目に見えない。
たんにジョギングやジムで筋トレをするのとどう違うのか、バイクでツーリングをするのとはまた違うし、やはり自然に包まれた感があるからでしょう。ずいぶんとお世話になったものだと、今回はつくづく思い返した回でした。この日はそのあと自転車でも出かけたりして、多少運動になったなあと思う日で、自転車もなかなか楽しくていいです。当然、運動になります。
癒しというのは、いただく方も、提供する方も、どちらもあまりそれを意識しないことによるものが最も癒し力があるように思うんですね。まあ、しんどいけどこつこととやる、という日々の積み重ねというか。
日々に疲れた人たちに、自分がどういう処方で快癒へ手助けできるかというと、甚だ無力であるとコウベをうなだれるしかない現実があります。そもそも鬱などというものは、理論的な薬でいかにも治るタイプと、そうでもないものとあって、そうでもないタイプのほうが地味に多いように考えています。西洋薬などより何気ない漢方薬が効果だったり、また、それと同時に、とにかく「アンタを見守ってる」というスタンスで、診療のたびに顔を合わせて二言三言交わしたりして、ということが、冥益となるのではないかと、いささか図々しいようですが、思っている次第です。
所詮ウツ抜けだのまたウツに沈むなどということはフワフワした日常茶飯事であって、ある日から突如モヤが晴れるようなことでもないんじゃないかなというのがリアルなところかと。
アラフィフ世代の、趣味や運動にハマることが多いのには、そういう時期の体の衰えや精神の低下に対する、自然な対処法という背景があるように思います。頭だけでなく体を動かせ、ですし、また、バーチャルでなく、実際に現場に行く、ということが、くたびれるけれども思い切って行くことが大事。それができないときは寝るしかないですが、せめて美味いもの食って、何かしら自分に褒美を与えることですよ。で、少しでもなにか外に出ようかなと思ったなら、その辺散歩するだけでも、いわゆる無目的な行動でもしてみたらどうですか。それでも何かしら体験があるもんです。それが結果的にずっとつきあうことになる趣味や楽しみにであう、つまり生きがいとかの多少のたしになる存在にであうきっかけになるかもしれないじゃないですか。