院長BLOG

2019.03.06更新

春は体がしんどくなります。それは自然の摂理といえばそれまでですが、それこそ花粉症しかり、花冷えからの風邪、胃腸調節機能障害、精神的不調などなど、季節気候変化に伴いさまざまな体調不良を来たす時期です。

 

実際、「春眠暁を覚えず」、という古語があるとおり、何か倦怠感を感じやすく、昼下がりのポカポカ陽気ともなれば、「ひねもすのたりのたりかな」のごとくついウトウトうたたねしてしまうこともあります。

 

精神的にキツイ状態となった時、体がこんなに重くてだるいのはしんどすぎる、ということで、いっそ重力など無くなればよいと考えることもあります。しかし、重力がなくなればそれは自分で立つことも歩くこともまともにできなくなります。自分の向く方向も一定に維持することすら叶いません。

しんどい重さがあればこそ、自分は立っていられる(つまり生きていられる)のだと、実はそこにいまさらながらのファクトを見出すのです。

また、人間関係や対人関係でくたびれたとき、またそれはそれで、他者がいるからこそ自分というものがここに存在していることを、ニュートラルな状態となったときや、本当に周囲に誰もいない環境に置かれたときに、ひしひしと思いだすことでしょう。

相手や枠などの対象物というか対照となるものや人があって、初めて自分というものが発生するんですね。自分があろうとすればそれは自動的に他者が存在してはじめて成立する概念であるということです。

環境に振り回される自分に疲れた時、いちど何もない場所に行ってみることでいったんリセットすることは、周囲があってこその自分が存在できることの、いってみればありがたさを初めて認識できて良い体験になるかもしれません。山や川や森林などの自然豊かな場所、人気のすくない場所に行って癒されるのはそういうことからかも知れないと思う今日このごろです。

重力があることで、重いけれども立ち歩くことができるし、周囲があることによって、自分というものを認識できるということです。自分はどう生きようかと定まってくるのです。

こんな当たり前のことをいまさら言ってなんの意味があるのかと思われる方が多いことでしょうが、疲れた人にとっては、こういう考えを少し意識することが、もしかしたらその人自身にとっての多少なりともの慰めになるのではないかと、そう思って、書いてみました。これは当然のことながら私自身のことでもあります。

自分の応援団は自分である。自分が自分の一番の応援団長である。それでいいと思います。そして、改めて、自分の置かれている環境のありがたさを多少は改めて認めてみること、ですね。重力も環境もなかったとしたら、生まれてそのまま何も食べることも何もしないまま、何も認識しないまま、そのまま単に訳も分からずに死ぬだけです。死んだとか生きたとかそういう感覚すら分からないでしょう。

仮にそのような、自分というものを支えていたもの、いままであったものが急に無くなってしまったとしたら、その時には実は自分は息をしているということに気づけば、それは自分が生きているということの認識につながります。自分は何を成したとか何をしているとかないけれども、とりあえず息をしている。生きている。

精神科を受診した経験がいろいろ豊富な患者さんによれば、精神科医師の中には、「眠れて食べれればそれでいいから」ということで、その2点だけを確認するだけで診察を10秒で終わらせてしまうこともあるそうですが、私は思うに、治療は薬だけではない。精神的に付き添うこと、付き合うことである、と。薬はあくまでも補助にすぎないのだ、と。そう思います。最低限、眠れて食べれればそれで良い、という考えも重要ですが、それは単に生きている、というだけなので、最低限のことにすぎません。そこをまず維持しながら、少しずつ社会人としての人間性を取り戻していきましょう、というのが、本来の治療目標ですね。それも当たりまえのことですが、人間というものは、病んだ人間というものは、結構厄介なものです。そうそう簡単にはいきません。でも私は自分自身を含めて、切り捨てません。相手がこちらのことを嫌になって去っていくことさえしなければ付き合います。去っていくことができるような人は、言ってみればそこそこ強い人でしょう。それはそれでさほど問題はないと思います。そもそもそれほど困っていないのです。

 

投稿者: 三本木クリニック

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